社会起業家ストーリー

~リユース食器で循環型社会を目指す~ NPO法人スペースふう 理事長 永井寛子さん

社会起業家になるきっかけ

山梨県民が愛するヴァンフォーレ甲府のスタジアムになくてはならない存在となったスペースふうのリユース食器。情熱で企業、行政を巻き込み、循環型社会の形成に取り組む永井さんの活動のきっかけは、ご自身のお子さんがまだ小さい頃、近所のごみ焼却場から有毒ガスが出たという小さな新聞記事にあるのかもしれません。

ゴミの収集・焼却の実態を知りたいと思った永井さんですが、永井さんが社会起業家たる所以は、ただ思うだけでも、行政批判を始めるわけでもなく、アクションを起こしたことにありました。永井さんは、増穂町(2010年富士川町に合併)役場に頼み、ゴミの収集から焼却までの過程を見学させてもらい、その時の様子をスライドにし、上映会などを実施しました。この時期から、「環境」を軸にしたまちづくりという着想が生まれてきたのでしょう。

ソーシャルチェンジをおこしたこと

町議会議員を務めていた永井さんですが、当時の県議会に義憤を感じたことから、町議1期目途中で議員辞職し県議選に出馬しました。選挙には敗北しましたが、立候補した永井さんを支えた女性達が、このエネルギーを町の活性化につなげていこうと、新しい組織「スペースふう」を立ち上げました。設立当初の「スペースふう」は、地域活性化を目指し、リサイクルショップやコミュニティ喫茶の経営、休耕田の活用を目的とした菜の花プロジェクトなど、様々な活動を行なっていました。

活動の転機となったのは、永井さんが参加したひとつの講演会でした。環境ジャーナリストの今泉みね子氏の講演のなかの、「ドイツでのリユース食器の取り組み」の話に、永井さんは強く惹きつけられたのでした。早速、仲間に賛同を求めた永井さんでしたが、その「思い」には理解が示されたものの、資金も設備もノウハウもまったくない自分たちには現実的ではないと、メンバー全員に反対されてしまうのです。それでもあきらめられない永井さんは、1年間、調査を実施し、その後に判断するということで納得してもらいました。

行動力にあふれる永井さんは、イベント主催団体へのアンケートでリユース食器のニーズを探るとともに、専門家や保健所、山梨県へとヒアリングや後援依頼を行っていきました。そのなかでも、伊藤洋山梨大学工学部教授(当時)に県内の意識の高い企業を紹介してもらったことが、さらなる転機を生むことになったのです。伊藤教授の紹介により「(株)はくばく」を訪れた永井さんと理事は、長澤社長(現会長)にその想いをぶつけました。すると、長澤社長はその場で資金協力を約束してくれたうえ、「スペースふうを支援する会」なるものを立ち上げることも永井さんに提案したのです。この会は、発起人として「(株)はくばく」を含む5社が名を連ね、その後県内20社ほどの企業が協力を申し出て、永井さんたちにリユース食器への道が開かれたのです。

2002年、リユース食器第1号の「どんぶり」が製造され、地元の最大の祭りでデビューしました。この食器の金型製造・成型などは、すべて地元事業者によるもので、スペースふうは、リユース食器のレンタル事業への第一歩を踏み出したのでした。

2003年、永井さんは再び、ある新聞記事に目が止まります。それは、環境省がサッカースタジアムで実験的にリユース食器を導入するというものでした。永井さんはすぐ環境省に電話をいれたそうです。「私たちはもう始めています!」その数日後、永井さん率いるスタッフ数人は環境省の要請を受け、霞が関に赴きました。環境省から帰った永井さんは早速、Jリーグ・ヴァンフォーレ甲府のメインスポンサーである「(株)はくばく」の長澤社長にヴァンフォーレ甲府でもリユースカップを導入することを提案しました。そして2004年、小瀬エコスタジアムプロジェクトがはじまったのです。

2004年には、経済産業省の後援により、スペースふうと地元増穂町との共催で「第1回全国リユース食器フォーラムinますほ」が開催され、全国から350人の人々が増穂町に集い
ました。全国各地から注文が来るようになると、各地で拠点事業所となる団体を募り、ネットワ一クで結ぶことで環境負荷を低減することを考え、「リユース食器ふうネット」も設立されました。

「いま」と「これから」

東日本大震災の折には、避難所からの要請を受け、千数百個のリユース食器を無償提供し、現在も生活困窮者への炊き出しサービスに、無償でリユース食器の貸出を行なうなど、イベント以外でもリユース食器の活躍の場が増えていっています。また、2012年には、地元富士川町と災害協定を締結し、災害時の食器無償提供を約束するなど、リユース食器の活用もさまざまな展開を見せていて、今後のスペースふうの役割も多様化していくことでしょう。